轍(わだち)

これまでの足跡や日々の感じたことを紹介していきます

「苦(くるしい)を仕事に」すれば「苦しい」が待っていた

前回は、「楽(たのしい)を仕事に」をモットーに仕事を進め、成功した事例を紹介しました。

今回はその逆、「苦(くるしい)を仕事に」した結果、「苦しい」が待っていたことを紹介します。

 

50代で異動になり、自由に楽しく仕事をしていて、そろそろ飽きてくる時期に異動となりました。

 

新たな異動先は、またまた20年前に仕事をした部署でした。

 

でも今回は、チーフということで、係の仕事のまとめ役を担うことになりました。

チーフというと聞こえはいいのですが、要は、係の仕事の責任は全部チーフが担います。

現場にも、全て係員と一緒に出掛けるなど、最前線で業務をこなさなければいけません。

 

なので、毎日夜の10時頃まで仕事をして、忙しい時期は土日もない状況でして、へとへとになるまで仕事仕事の毎日でした。

 

おまけに、当時の上司は、「自分の言うことが絶対」の人で、口をはさんでも激怒、ミスをしても当然激怒するような、パワハラ上司でした。

 

仕事も、さらに上の上司が喜ぶことだけを考えて我々に指示をしてくるので、無茶ぶりな仕事も多く、当然、成果が出ないことが多かったです。

 

こうすればいいのにと思っても、言えば激怒するような上司でしたので、だれも何も言わずに指示されたことを、こなすことに重点を置きながら仕事をしていました。

 

なので、がんじがらめの状態で「苦しい」思いをしながら仕事をしていたため、全然、楽しくもなく、「苦しい」思いだけが残る結果になりました。

 

いかに、自由に仕事をさせていただいた上司の方の偉大さを感じました。

(我々に興味がなかっただけかもしれませんが・・・)

「楽(たのしい)を仕事に」を体現する

前回の続きです。

 

20年ぶりに戻って来た部署。

1年目は、前任者と同じように仕事をしました。

でも、2年目になると、同じことの繰り返しをしても面白くないと思い、自分が楽しくなるような仕事にしたいなと考えるようになりました。

 

特に、例年、秋にイベントを開催していましたが、毎年内容が同じで、参加者も減少傾向でした。

 

公務員なので、もうけを出す必要はないのですが、どうせやるなら、主催者側も、来場者も楽しくなるような、参加して良かったなと思ってもらえるものにしようと、あれこれ考えて、上司に相談しました。

 

当時の上司は、席に座っていることがなく、一日中、どこで何をしているのか分からない人でした。

でも、逆に、我々のすることには一切口出ししなかったので、何でも自由に伸び伸びと仕事をすることができました。

 

いい上司なのか悪い上司なのか、この時は分かりませんでしたが、自分の思うような仕事ができて、とても充実していて、まさに「楽しく」仕事ができました。

 

なお、イベントの結果は、参加者が大幅に増えて大盛況のうちに終了することができました。

 

あれから8年経過し、私も今は違うところで仕事をしていますが、今も私が始めた時と同じスタイルでイベントを開催しているようです。

アラフィフになって20年前と同じ部署に異動する

50歳を過ぎたころ、人事異動で昔、20年以上前に仕事をした係に異動になりました。

 

仕事の内容も以前と同じなので、懐かしい気持ちもありましたが、20年経っても同じ仕事をすることに、全然進歩も出世もしていないことに気づき、複雑な心境が半分の変な気持ちで仕事をしていました。

 

ただ、20、30代のころは、目の前の仕事をこなすことで精いっぱいでしたが、今回は、色々なところで仕事を経験してきました。

なので、どうすれば効率が上がるのか、仕事の効果的なやり方はないかなど、常に、自問自答しながら、改善できることは改善しながら、楽しく仕事をすることができました。

常に先頭に立って突き進む上司

40歳を過ぎた頃の上司の話です。

その人は、係のすべてを取り仕切るような人でした。

 

上司から指示があると、係の対応方針を決めて、資料作りの指示も全部自分がして、我々が作った資料を持って、上司へ説明してきます。

常に自分が矢面に立って係の仕事を取り仕切るような人でした。

なので、いつもなぶり書きの原稿を手渡されては、今すぐ作ってと指示が出されると、1分1秒を争うように資料を作成していました。

<とても気が短い上司でした>

 

それでも、係のチーフとしての貫禄はバツグン!課内でも一目置かれる存在でした。

山本五十六長官を地で行く神様のような上司もいました

30年以上前の上司になりますが、連合艦隊山本五十六司令長官の

「やってみせ、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」

を地で行く、神様のような方がいました。

 

当時、私は30歳で、右も左もわからない初めての部署に異動になりました。

その時の上司Cさんなんですが、仕事中は常にダンボの耳状態で、係に関係のあることを上司が話していると、スタスタと近づいては「その件は○○○です」「今、○○○なので△△△です」と、即座に回答していました。

 

また、私が決裁文書を持って上司へ説明を求められて困っていると、スッと横に来て「それは○○○です」と、適格な回答をしていただきました。

 

常に部下の模範になる立ち居振る舞い、きちんと仕事ができればほめていただくこともあり、今までで一番の上司といっても過言ではありません。

 

公文書の作成でも、正しい書き方や表現方法のアドバイスをいただくなど、その後の公務員生活の基礎を作っていただいたと思っています。

 

自分もそんな上司になりたいと思いながらも、はや定年を迎えようとしています。

年収のピークは50歳、忙しさのピークは56歳でした

公務員の場合、給料は年功序列が当たり前だったのですが、10年ほど前からは、55歳で昇給停止になりましたので、昇任しないと給料も上がらなくなりました。

 

私の場合、基本給が高い研究職時代の50歳時が最も年収が高く、それ以降は、年々下がっていきました。

一方で、一番忙しかったのは、56歳の係長の時で、毎日9時頃まで仕事をして、土日も出勤する日が多かったので、1年後には心身ともに限界を迎えていました。
【もう1年続いていたら、心身ともに壊していたと思います。】

 

それでも、年収では研究員時代の方が多かったわけなので、いかに研究職が恵まれていたかが分かります。
<研究成果を求められますので、プレッシャーも大きいですが。。。>

子どもの中学受験③

(続き)

合格発表の日を迎え、結果は如何に

発表の日を向かいました。

 

妻と息子の二人で学校へ行って掲示板に張り出されるのを見に行ったそうです。

 

私は仕事でしたので、メールで結果を知らせてもらいました。

 

結果は、なんとか「合格」を勝ち取ることができたようです。

 

発表後、点数開示を希望していたものですから、早速、点数を教えてもらったのですが、点数は合格最低点ギリギリでした。

 

勝因は満点に近かった作文でしたので、冬休み中に練習をしていてよかったなあと、つくづく思いました。